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第19回 1997年5月1日
『常識というものは時に間違っていることがある。一般に大量生産体制はヘンリー・フォードが考え出したとされているがこれは全く間違いである。』

 アメリカの西部劇を見ているとアメリカの歴史を目の当たりにすることが出来ます。西部劇で男の武器といえば拳銃やライフル銃です。当時すでに大量に作られて広く出回っておりました。人口の2〜3倍の数の銃が作られていたようです。さてではこの拳銃やライフル銃はどのようにして作られたのだと思いますか。一つ一つ鍛冶屋によって手作りで作られたのでしょうか、それとも大量生産体制によって作られたのでしょうか。コルトの拳銃の弾丸とウインチェスターのライフル銃の弾丸は共通に使えたようですから、当時すでに「業界標準」が出来ていたということですね。西部劇の時代はご存知のようにフォードよりづっと前の時代です。

大量生産体制とはベルトコンベアシステム?

 そもそも大量生産体制とはいったい何なのでしょうか。大量生産体制とは単に大量に生産すると言うことではなく、システムすなわち「仕組み」なのです。大量生産体制といえばまず考えられるのがベルトコンベアシステムです。ベルトコンベアシステムはフォード工場の技師が食肉業者からアイデアを得たということですからフォードが最初ではありません。さらに「移動式組み立てライン」を使って自動車を大量生産したのはランサム・E・オールズと言う人が最初です。後にGMでオールズモデルを作った人です。オールズの自動車工場では組み立てラインをトロッコのように滑車のついた台車をつなげて人が手で押して動かしていたのです。

大量生産体制とは互換部品システムである。互換部品システムを考えたのはイーライ・ホイットニーである。

 では大量生産体制とはいったい何で誰が考えたのでしょうか。ベルトコンベアや滑車を使って部品を運搬し組み立てのスピードを上げるというのは実は簡単なことではありません。一つ一つの部品を手作りで作っていたのでは寸法精度は一定になりませんから組み立てに専念することは出来ません。すべての部品が一定の寸法精度で出来ていなければならないのです。つまり部品の標準化です。現代では当たり前のことですが一定の寸法精度を出せる工作機械がなかった当時では不可能なことです。つまり大量生産体制というのは工作機械がなければ出来ないし、標準化、専門化、分業化という考え方も必要なのです。またどの部品も同じ寸法に作れば組み立ても部品交換も簡単に出来ますので、これは Inter-Changeable-Parts System(互換部品システム)と呼ばれております。大量生産体制というのは互換部品システムがあって始めて達成出来ることなのです。これが言わば大量生産体制の真髄なのです。これを考え出したのはイーライ・ホイットニーという人でフォードより約100年前、1800年頃のことです。

互換部品システムはこうして出来た。

 ではどのようにしてイーライ・ホイットニーは互換部品システムを考え出したのでしょうか。当時アメリカは独立したもののまだイギリスやフランスと戦争状態にありました。ところが戦争に必要な大量の武器がアメリカにはありませんでした。アメリカ政府は官営の大きな銃器工場を3つ建てて増産したのですがとても間に合いません。そこで民間企業に請け負わせることにしたのです。これに応じた一人がイーライ・ホイットニーです。彼は発明家です。彼は綿繰器の発明によってアメリカ経済に多大な影響をもたらした人物でしたが、銃の作り方は全く知りませんでした。しかしアメリカ政府は彼の能力を信頼していましたし、彼の計画はすばらしものだったので彼に請け負わせることにしました。官営の銃器工場では3年でたった千丁の銃しか生産出来なかったのですが、彼の計画では2年で一万から一万五千丁の銃を生産する計画だったのです。ところが当初の予定が過ぎても一丁の銃も出来ませんでした。彼はまず工作機械や測定器、治具などを作ることから始めたのですから無理もありません。当時旋盤と中繰り盤はすでにあったので銃身の部分は機械加工が出来たのですが、重要な機関部は機械加工が出来なかったのです。手作りで‘やすりがけ’をして作らなければなりませんでした。そこで彼は平面工作の出来る機械を考えたのです。すなわちフライス盤を最初に発明したのはイーライ・ホイットニーなのです。その後悪いことが重なりました。資金不足に加え疫病の発生や近年にない長く寒い冬のため多くの人が死んで労働者が不足、材料も不足、さらに工場が大雪でつぶれてしまい全く生産出来ない状態になってしまったのです。それでも数年後にようやく五百丁の銃が完成しました。

大量生産体制によってアメリカは世界一の工業国になった。

 ホイットニーは合衆国大統領トマス・ジェファソンの前で百丁の銃をバラバラに分解し、次に手当たり次第に部品を取ってまた百丁の銃を組み立てたのです。これを見た大統領は驚嘆し、その結果大統領の強力な支持を得ることが出来ました。そのおかげで多くの人が協力するようになり、急速に大量の銃が生産され、そしてアメリカはイギリスやフランスとの戦争に勝つ事が出来たのです。当時のイギリスやフランスの銃は手作りであったため頻繁に故障をし、その都度本国から取り寄せなければならなかったのです。しかしイーライ・ホイットニーの作った銃は故障することなく、しかも故障した場合でも部品を交換すればよかったので、戦場でも簡単に修理出来たということです。その数十年後イギリスが自国の工業製品の素晴らしさを世界にアピールするために行なった第一回世界工業博覧会(1851年)において、アメリカが出品した大量生産体制に基づく製品は、世界の人たちに世界一の工業国はイギリスではなくアメリカであるということを知らしめたのでした。その後大量生産体制はヨーロッパではアメリカンシステムと呼ばれるようになりました。

フォードはいったい何をしたのか?

 イーライ・ホイットニーが作った銃はマスケット銃と言う軍用銃ですがその後この大量生産体制は民間のスミス&ウエッセン、レミントン、コルト、ウインチェスター等の銃器製造業者に伝えられただけでなく、シンガーのミシン、ウォルサムの時計、マコーミックの農業機械等にも応用され、アメリカの本格的な工業化が進展していったのです。これらはすべてフォードが自動車を作ったづっと以前の話です。ではフォードは何をしたかと申しますと、アメリカの経営史家は「実際のところフォードは、一般に彼が考え出したとされている物を、何も作り出しはしなかった」と言っています。フォードは鉱山から鉄鉱石を運び、それを製鉄所で溶かして鉄を作り、工場で部品を作り、自動車に組み立てるまですべての工程をベルトコンベアで結んだのです。そのうえ鉄鉱石から自動車が出来るまで実に24時間でやってのけてしまったのです。こんなこと現在の企業でも簡単に出来ることではありません。しかしこのような華々しいフォードの大量生産体制もその本質を考えて見ればすべて過去の技術を利用したにすぎないという事です。しかし、だからと言ってフォードは何もしなかったという事にはならないと思います。私はフォードは生産よりむしろマーケティングに大きな革新をもたらしたのだと考えております。何しろ当時非常に高価で一部の金持ちにしか買えなかった自動車という物を誰もが買えるような大衆の物にしたのですから。つまり潜在需要を掘り起こしその需要を満たすために大量生産体制を利用したのです。実はオールズも同じ事を考えていたのですが生産規模が小さかったので自動車をフォードほど安く大量に作ることが出来なかったのです。大量生産体制は大量に生産してはじめてその真価が発揮されるのです。また大量生産は当然大量販売が前提としてなければならないのです。やはりフォードの先見の明という事でしょうか。

大量生産と個別生産の両立は今後の検討課題である。

 最近多品種少量生産、と言うよりも多品種一品生産が増えてきたため、大量生産体制が崩れてきて一部では個別生産の方が効率的に生産できるようになりました。先日も日経新聞に大量生産とカスタム(受注)生産とを同時に実現する概念としてマス・カスタマイゼーションということが紹介されておりました。これを超生産体制として今後の検討課題であるとしています。大量生産と個別生産の両立を考える場合に一度その原点に返って考えてみてはいかがでしょうか。そこにはきっと歴史の短いアメリカの文明と歴史の長いヨーロッパの文明との違いが見えてくると思います。